赤田神社
歴史・沿革
赤田神社は、古老の口伝として、今から約1,800年前の成務天皇9年9月9日(西暦139年)に、当時の吉敷の人々が島根県の出雲大社から大社のご祭神である大己貴命(大国主命)の御分霊をお迎えして、現在の吉敷中村町内にお祀りしたのがその始まりといわれています。
その後、養老元年(西暦717年)に神様のお告げにより現在の吉敷赤田にお遷したと伝えられています。
それから変わることなく吉敷川西岸の氏神様として厚く信仰され、この村を鎮め、氏子の繁栄を見守り、五穀の豊穣と地区の融和と親睦を深める役割を果たしてきました。
また、防府の玉祖神社(一の宮)、徳地の出雲神社(二の宮)、宮野の仁壁神社(三の宮)、大歳の朝田神社(五の宮)と共に周防五社の一つに数えられ、その第4番目に当たることから「四の宮さま」の名で呼び親しまれ、地区民をはじめ近郷の人々の参詣が絶えることがありません。
現在の社殿は、江戸時代中期から後期の建立といわれています。
本殿は三間社流造りで、意匠をこらした妻飾りが施されています。
拝殿の天井には内藤鳳岳画伯作の龍が描かれていて、その眼は八方を睨み、境内に入りくる邪気を追い払うようにも見えます。
また、拝殿向拝には、内海忠勝元内務大臣の実兄の吉田岩亀翁作の彫刻が奉納されています。
内藤鳳岳、吉田岩亀は共に吉敷出身の人物で、そうした人々の携わった当社は、ふるさと吉敷ののすばらしい財産の一つとなっています。
ご祭神
大己貴命
読み:おおなむちのみこと
赤田神社の主祭神である大己貴命は、島根県の出雲大社からご分霊を勧請しお祀りしたことからもわかるように、出雲大社のご祭神の大国主大神と同一神で、稲葉の白兎のお話が有名です。
この神様はたくさんの呼び名を持ち、『おおなむち』もその御名の一つです。
(ご神徳)
縁結び、夫婦和合、病気治癒、五穀豊穣
猿田彦大神
読み:さだひこのおおかみ(さるたひこのおおかみ)
猿田彦大神は、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から降臨するときに道案内をした神様です。
この故事から道の守護神(道祖神)として信仰され、転じて道を開き、人々を幸福へ導く神といわれています。
また、蹴鞠(けまり)の神様でもあり、サッカーをはじめとする球技、ひいてはスポーツ全般の守護としても信仰されています。
(ご神徳)
交通安全、旅行安全、道開き、球技、スポーツの守護
少彦名命
読み:すくなひこなのみこと
少彦名命は、稲穂の弾みで飛んでいってしまうほどのとても小さな神様といわれています。
大国主命と一緒に国造りをした神様で、病気平癒にご利益があり、酒造の神様といわれています。
(ご神徳)
医薬、治病、温泉、酒造の守護
柿本人麻呂大神
読み:かきのもとのひとまろのおおかみ
柿本人麻呂大神は、万葉の歌人として有名で、歌の神様として有名です。
また、その生涯が謎に包まれているところが多く、様々な逸話の主人公でもありす。
また、ヒトマロを「人丸」と書き、「火止(ヒトマル)」と読めることから鎮火、防火の神様としても信仰されています。
当社には柿本人麻呂をご祭神に勧請した故事は残っていませんが、江戸時代後期に吉敷の領主吉敷毛利家により、赤田神社において「人麻呂・・・」が行われてたとする木札が残っています。
このことから、領主が承知の上で祀られていることはわかりますが、その詳細は一切不明です。
(ご神徳)
歌、鎮火・防火、殖産の守護